しばかりの桜

大和さくらの会」が、大牟田市三井三池炭鉱三川坑跡に桜苗木163本を植樹し、その目録を同市長に手渡したという記事が、今朝の新聞にあった。

記事によれば、同会は戦艦大和と運命をともにした旧海軍大将、伊藤整一ゆかりの桜の苗木を植樹する活動をしている。伊藤はみやま市高田町の出身で、彼が東京の自宅に植えた桜は、長男も戦死すると子桜が伸びたことから、「父子桜」と呼ばれている。会はそれを育苗し、各地に植樹している、という。

「各地」の一つが筑後川の駅しばかりで、植樹されたのは昨年2月22日のことである。

久留米の博多②

櫛原バイパスに博多道という交差点がある。

江戸時代、筑後一国を田中氏が治めていた頃より、通町4丁目から北に折れ、いまの櫛原中学校の北側を通り、小森野を経て、筑前方面へと通ずる道が走っていた。

いま博多に向かう時、その交差点より350mほど東に進んだ3号線を北上することになる。江戸時代の「博多道」は、地名として残った。

ところで、この交差点の南東の角に「福岡」がある。というより、「福岡」を名に冠した店があるのだが、その由来は確認していない。

久留米の博多①

最近、諏訪野町にゆめマートがオープンした。今年3月末に閉店したサニー諏訪野町店の跡にである。

この駐車場を西から出ようとすると、右手の植え込みの中に、石碑がある。
(表)
高橋絹織株式会社 
              操業跡地

(裏)
昭和二十二年(一九四七)一月創業者高橋川彦はこの地(旧陸軍弾薬庫跡地)の国有財産の払い下げを受け同年七月動力織機を稼働した
        平成十三年十一月吉日建立

と刻まれている。
同社はスポーツ関連事業の会社として、今日に続いている。沿革は同社サイトに詳しく、かつてそこにあった工場では博多織を織っていたこと、平成13年(2001)工場跡地に本社社屋を新設したことなどが記されている。

開園(2015.4)

この春、京町に新しい公園が出来た。

京町の公園に関しては、京町にある京町第一公園と京町第三公園、京町にはない京町第二公園がある。後者については「京町にはない」(2015-11-22)参照。

しかして新しい公園の名は、京町第四公園とはならない。

開園とともに設置された「公園名の由来について」のプレートによれば、その地域が江戸時代に京隈小路(きょうのくまこうじ)と呼ばれた歴史を残すべく「京隈公園」と名付けたという。

京町がかつて京隈小路だったことが京隈公園の名として残され、城南町の一部がかつて京町だったことが京町第二公園の名として残っている。

没後(40年)

福岡県立美術館で「没後40年 高島野十郎展」が開催中である。展観された作品で、久留米を描いたと分かるものは、「筑後川遠望」(昭和24年頃、油彩・板、福岡県立美術館所蔵)くらいだったかと思う。解説では、高良大社辺りで描いたものとされる。なるほど、高良会館展望台からの眺めに似ている。ただし、作品が描かれた頃にはまだ、高良会館はなかった。1961年(昭和40年)の落成である。

野十郎は、江戸前期に造営され、重厚な構えをみせる社殿を背に、「筑後川遠望」を描いたかもしれない。ただし、その社殿は、目下、お屋根替え工事の最中で、足場などに囲まれて見ることができない。

病院(70周年)

西鉄久留米駅から久留米学園高等学校に向かう途中、長らく建設中だった建物が完成していた。新古賀病院の病棟「東館」である。

古賀病院グループのサイトによると、グループ設立70周年記念プロジェクトとのこと。1946年(昭和21年)、古賀病院は通外町に開院した。

戦災後、赤痢などの伝染病が大流行するが、医師も医薬品も不足した時期で、「福岡県健康保険第一病院」の創設と同じ年である。

病院(50年振り)

気になる切り株のある秋葉神社(2015-11-24参照)から、六ツ門に向かって歩いて直ぐの右手に、竣工間近の建物が現れる。建て替え中の久留米総合病院である。

以前は久留米第一病院と呼んだが、いつの間にか名前が変わっていた。調べたら、去年の4月のことだという。そのちょっと前、建物の着工前に“文化財の調査をしています”というような看板が掲げてあって、フェンスの向こうに発掘作業をしているのが見えた。

久留米第一病院は、戦災を免れた私立の山田外科病院を厚生省が買収して「福岡県健康保険第一病院」として開院され、今回建て替えられることになった本館は、いまから50年前の昭和40年竣工だった。ということなどは『久留米市史』第4巻に書かれてある。

ここで、久留米の第一、第二…病院でなく、福岡県の第一、第二…病院問題が浮上してきたのだが、それは今後の課題ということで。